カテゴリー
エッセイ

モノは必要最小限にしてあとはデジタル・データで管理する

CDやレコードが売れなくなってきたのは、音楽を聴くだけならデジタル・データで十分だからだ。

ハードディスクにすべての音楽データを入れておくことができる。CDコンポやCDラックが必要なくなり、物理的なスペースが空く。

そんなことを考えながら、ずっと部屋に置いてあった大量のCDを処分するかどうか迷っていた。俺は音楽を聴きたいのか、それともCDという物体を保持したいのか。

頭のなかで押し問答を続けた結果、iTunesにすべての音楽データを入れておけば物体は必要ないという結論に達し、CDやレコードなどを処分することにした。

デジタル情報で問題ない

モノとして必要なものと、デジタル情報でも問題ないもの。この分別が必要になったのは、IT分野でイノベーションが起こったせいだ。紙に印刷して目を通していた書類は、液晶ディスプレイに映るPDFで事足りる。同様に、本やマンガも電子書籍で代替可能となった。

10年前は文書データなどを片っ端から印刷していたのに、今はプリンターをまったく使っていない。使わなすぎて中のインクも固まり、もう使えなくなっている。明らかに昔よりも紙に触れる機会が減っている実感がある。

時代は少しずつ、だが確実に変化しているのだ。

食べ残した皿

とはいえ、電子書籍をまだ導入する気にはなれない。やはり紙のページを手でめくって本を読むほうがどうしても読みやすいと感じてしまうのである。これはデジタル・ネイティブ世代にはわからない「前時代的」な感覚なのかもしれない。

モノとして物理的に部屋のスペースを占拠している彼らがいるからこそ、所有している実感が沸く。これが物質的リアリティーを信じる世代の考え方である。まずはその前提を捨てることから始めないとモノは減らないだろう。

家にあるメディアは、言ってみれば「いちど食べたもの」だ。食べ終わったものを棚に並べているに過ぎない。「食べ残し」があるかもしれないと、皿を残しておくから洗ってない皿がどんどん溜まっていくのである。

食べ残しの皿から可食部分を探しても、最初に食べた時の感動を味わうことはない。それよりも、新しい皿に盛られた食べたことの無い料理を食べてみたい。今はそう思っている。

ノイズ削減

好きな映画はブルーレイとかDVDで所持していたい。コレクターならいいかもしれないが、観たければ数100円程度でレンタルできる時代である。年に何回も観ないというのであれば、自宅の棚をレンタルショップに管理してもらう感覚で良いのではないか。

そう思えるようになってから、どんどんモノを処分したくなった。身の回りからモノが消えていくと余計な視覚情報が入らなくなり、思考からノイズが減っていく感覚を覚えている。

最近、目当ての曲にたどり着くスピードは「Google検索」がいちばん早い。たとえ曲を持っていても、何千何万曲もある自分のiTunesライブラリーから見つけるのは面倒くさい。

このとき、「所持するって何なんだろう」と思った。