ラッパーは自己申告制なので、「自分はラップやってます」といえば、肩書きとして成立する。ブログを書くから「ブロガー」、YouTube配信してるから「ユーチューバー」というのに近い。
違いがあるとしたらコンテンツ(作品)の有無だ。ブロガーやYouTuberは自作のコンテンツ(ブログ記事や動画)を持っている。ところがラッパーはコンテンツ(作品)が無くてもラッパーを名乗ることができる。
コンテンツを持たないラッパーとは、たとえば「バトルMC」と呼ばれるジャンルのラッパーである。MCバトルの大会にエントリーして賞金を稼ぐ。ただ正直、賞金以外の副収入がないと1本で食べていくのはかなりキツいため、職業としては割りに合わない。
それでもバトルMCとしての活動を続けるメリットとしては、勝ち上がっていけば「ラッパーとしての知名度を上げられる」ということが挙げられる。知名度が上がれば、テレビやラジオ番組といったメディアに出演する機会が増える。結果、露出が増えて自分の作品を売り出しやすくなる。
このように、ラッパーとしての知名度や実績をつくるのであれば、バトルMCで活躍してしまうのが手っとり早かったりする。とうぜん向き不向きがあるので、一概には言えないが。。
バトルMCの魅力は、対戦相手との対話から生み出されるストーリーと化学反応である。それは一瞬のきらめきであり、観客はそんな「刹那的な快楽」を求めている。まるで「闘犬の殺し合い」を見ているようなスリルに価値を感じているのだ。
そういう性質から、バトルMCの多くは「相手のアイデンティティを破壊する」ようなラップに終始する。相手の文句を逆手にとって、うまい返しができると綺麗にカウンターパンチが決まる。事前に用意したリリックではあまり効果がない。即興性が重視される。
単純に、「フリースタイルを駆使しながら場を支配した」MCが勝利を手にするのである。
バトルMCは格闘家のように、お客さんを喜ばせながら相手を壊す。口が悪いほど強い。そういう意味では、心に闇を抱えている人がバトルに向いているのかもしれない。ネガティヴ発言を思いっきり他人にぶつけたり、ぶつけられたりする世界。精神衛生上よろしくなさそうだ。
鬱屈した感情から生成される「毒」を武器にして戦い続ける。勝ち抜いていくには、バトルの性質上、相手の良いところではなく、「悪いところ」にフォーカスする視点が必要になる。いつでも「毒」を生成できる能力。他人からしたら厄介きわまりない。
でも発散を続けていれば、いつか「毒」は枯渇してしまうだろう。こうなると「毒」の原料である「負の感情」がうすれて、真っとうな人間になってしまう。こうなるともう勝てない。
「負の感情」がなくなってしまうのはバトルMCにとっては致命的である。だがこれは単純に「人間的成長」とも言い換えることができる。つまりバトルMCの期間中は「精神的な毒素」を体内から抜くための「デトックス期間」ということになる。
「毒」を発散できる相手がいるからこそ「負のエネルギー」がぶつかり合って相殺される。こういった「場」があることで、かたぎの人間が「負のエネルギー」の餌食になってしまうのをあるていど抑制しているようにも思える。
この「負のエネルギー」。バトルを観戦している観客もとうぜん持っている。バトルを観戦しながら「負のエネルギー」を発散するために会場へと足を運ぶのである。
客としてMCバトルを楽しめる人は、自分もまた「卑屈な精神」を持っている。ところが自分では「うまいこと」言って解消するほどのラップスキルがない。だからその「毒」をバトルMCに投影して、代わりにぶちまけてもらう。
客は入場料を支払ってバトルを観戦するわけだが、カネを払っている以上、相手から直接罵声を浴びることはない。安全圏で楽しむことができる。つまりノーダメージでカタルシスを得られるという利点がある。精神的なデトックスとしてはお手軽な方法だと思う。
そしてこの私もまた、無意識のうちに「デトックス感覚」でMCバトルを楽しんでいた1人である。かつてはB-Boy Parkの『MCバトル』や『UMB』もチェックしていた。エミネム主演の映画『8マイル』のバトルシーンはDVDで何度も見返した記憶がある。
8mileバトル(part 1)
だが今はもう、それほど「精神的な毒抜き」を必要としていない。気づけば、若かった頃にはあったはずの「とがった感性」や「ルサンチマン」は失われていた。
かつて人を傷つける可能性があった「鋭利な石」は、ほかの石と長い年月をかけてこすれ合っていくうちに丸くなったというわけだ。
アティチュード、パッション、ヴァイブス。こういった要素は、こじらせた大人をのぞけば、若者に与えられた特権だろう。こういった内側から暴発しそうなほど溢れ出るエネルギーは、うまくコントロールしておかないと他人に迷惑をかけることになる。そんなときに、バトルMCの「場」を使って発散する方法というのは、わりと平和な解消法だと思うのである。