なにか作品をつくって公開するとき、覚悟しなければいけないことがある。
それは、「作品を公開した時点で、制作者の意図とは違った解釈をされてしまう」、ということだ。
作品に触れたときに抱く印象は、人の数だけ異なり、その解釈は、受け手のバック・グラウンド(宗教や価値観など)にゆだねられる。
なんの説明もなく、ただ作品を鑑賞させた場合、制作者の意図は、ほぼ理解されないと考えていいだろう。
制作者の責任
制作者が、作品の意図を伝えたいのであれば、本人による解説を、確実に鑑賞者へと届ける必要がある。
本人による解説は、作品の意図が曲解されてしまうリスクを、未然に予防する機能がある。
鑑賞するうえでの「利用規約」をあらかじめ用意しておくことで、「保険」をかけておくのだ。
本来、作品に対する解釈は、鑑賞者の自由であるが、「解釈のガイドライン(利用規約)」を設定しておくことで、作者に都合の悪い解釈をされた時の「言いワケ」ができるようになる。
逆に、解説をせずに作品を公開した時点で、鑑賞者に曲解されるリスクを了承しなければならない。
鑑賞者の責任
前提知識のない鑑賞者は、制作者の意図とかけ離れた解釈をしてしまう可能性がある。
作品の本質を理解せずに、表面的な印象で評価をしてしまうことも多分に考えられる。
どう評価するかは、鑑賞者の自由。自身の心に留めておくぶんには、それでいい。
しかし、それを外部に公開してしまうとなると、話は変わってくる。
たとえば、否定的な評価を社会に公開すれば、制作者の名誉を傷つけてしまう。
ライムスター(制作者)と朝日新聞記者(鑑賞者)
1999年12月11日付の朝日新聞(夕刊の文化欄)に、Rhymester(ライムスター)のアルバム「リスペクト」についての解釈を含むコラムが掲載された。
以下が、その内容の一部である。
探検キーワード『リスペクト』 ~ラップで語る空虚な倫理~
『○○をリスペクトする』『リスペクト××』。若者の間で、この言葉をよく耳にする。英語のRESPECT(尊敬、敬意)をカタカナ化しただけだが、少し気になる。人気バンドのドラゴン・アッシュは「父への尊敬、母への敬意」と歌い、『リスペクト』と題された別のグループのアルバムには、軍服姿で帯剣した写真が載る。様々な価値観が壊れつつある今、若い世代に封建的な価値観を求める動きがあるのだろうか。(西田健作)
リスペクトという言葉は、黒人が生み出したヒップホップによってニューヨークから日本に入ってきたそうだ。ターンテーブルでレコードを回し、ラップを刻むヒップホップで、なぜリスペクトが多用されるようになったのか。音楽雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』の編集長、山崎洋一郎さんに聞いてみた。
「黒人と白人では音楽のとらえ方が微妙に違う。奴隷として連れてこられた黒人は、ビートがあるアフリカの音楽をルーツとする。リスペクトは、黒人音楽を発展させてきた先人に対する敬意を表すために使われるようになった」。どちらかというと先人への反発が強いロックとは違い、自分たちの歴史を意識することから生まれた言葉、か。なるほど。
「ヒップホップは黒人の歴史の改革運動だった」と話すのは米国の黒人社会に詳しい工学院大学非常勤講師の酒井隆史さん(社会学)。白人中心の米国で、白人に同化することは、苦難にあえぐ同胞を忘れていくことにつながる。ヒップホップは、黒人の置かれた現状を変えていく武器として、先人に対するリスペクトを主張してきたと言う。「黒人歌手のジェームス・ブラウンをリスペクトし、彼のレコードを回して自分のラップをぶつけることは、過去と現在の歴史をつなげることになるのです」
だが、人種のあつれきを肌で感じることが少ない日本では、リスペクトの使われ方がかなり違ってきているようだ。ヒップホップを取り入れたドラゴン・アッシュの曲には他にも、「この地この国に生を授かり」「日出ずる国に生まれ育ち」というように、ドキッとする言葉が出てくる。ライムスターという別のグループは、アルバム「リスペクト」の一曲で、マイクを持った自分らを刀を手にした侍に例えている。
「心や体の痛みを、紋切り型ではなく自分の言葉で語るべきなのに、なぜ、飲み屋で親父が説教するような空虚なモラルで語ってしまうのだろうか」と酒井さんは心配する。「ヒップホップのメンバーの多くが男性で、マイノリティー性を背負った女性ではないこと、日本のヒップホップグループの多くは中流以上の階層が中心だったこと、さらに『日の丸・君が代』の法制化という時代の空気も反映しているのでしょう」
その上で酒井さんはこう主張する。「日本にも沖縄や在日などマイノリティーの人々が造り上げたヒップホップが、逆にマイノリティーを抑圧する側に回ってしまうことに、もっと想像力を働かせるべきです。」
一方、山崎さんは「封建主義への回帰では決してない」と話す。「ドラゴン・アッシュが『父を尊敬する』と歌っても、それは自分のお父さんであって『父』という立場ではない。『日出ずる国』といった表現についても、一つの舞台を選んだにすぎない。外国に舞台を借りなくても表現できるようになった感性の成熟と見たほうがいいのではないか」
雑誌でドラゴン・アッシュを思想的に批判したエッセイストの三田格さんは、リスペクトを「共同体が断片化していくなかで、若者にとっては誰かとつながっていたい心の動き」とみる。「米国と違ってコミュニティー意識も人種意識も希薄なので、誰に感情移入していいのか分からない。だから例えば『リスペクト坂本竜馬』といって、竜馬とつながったような気になっているのではないですか」(以下略)
おおよそヒップホップとは関連のない人間による解説が終始したコラムではあったが、彼らの認識は、上記のようなものであった。
これに対して、アルバム「リスペクト」の制作者である、Rhymester(ライムスター)メンバーの宇多丸(ウタマル)は、コラムの内容に納得がいかなかったようだ。
コラムに対する反論、抗議文を送付
当コラム掲載の数日後、知人から記事の存在を知らされた宇多丸(ウタマル)は、朝日新聞の西田健作記者宛てに反論・抗議文の手紙を送った。(コラム掲載の2週間後)
しかし、その反論・抗議は黙殺されてしまった。
そこで、当時、宇多丸(ウタマル)が連載を持っていたヒップホップ雑誌『Blast』の「B・ボーイ・イズム」というコーナーに、2000年2月号~3月号の2号にわたり、手紙の全文を掲載した。
ヒップホップ専門誌の読者が、宇多丸の抗議文を支持したのは言うまでもない。
雑誌『Blast』のライター、古川耕による質問状と回答
雑誌『Blast』のライターであった古川耕(フルカワ・コウ)氏は、2000年1月20日、朝日新聞社へ、西田記者に対しての取材を電話で申し込んだ。ところが、「記者への取材は難しい」と、一蹴されてしまう。
では、朝日新聞社としての見解を聞かせてほしい、という流れになり、FAXで質問状を送付した。以下が、その質問。
- 佐々木士郎氏の抗議の手紙は読んだのか?
- 今回の記事を書いた動機は?
- 記事を書くにあたり、どのような取材をし、どんな作品を聴いたのか?
- ヒップホップ専門誌からすれば、当記事には明らかに取材不足・認識不足が見受けられる。そういった指摘に対する見解は?
- 「ラップで語る空虚な倫理」という見出しをはじめ、記事全体が日本のヒップホップ全体に悪印象を与えたおそれは大きく、ヒップホップ専門誌にかかわる人間として本記事はとても容認できるものではないのだが、そういったいけんについて反論は?
この質問状に対して、5日後に返答が届いた。
月刊『BLAST』
ライター 古川耕お電話でお話しましたように、せっかくの申し出ですが、貴誌への見解は辞退させていただきます。簡単ではありますが、昨年12月11日の夕刊「探検キーワード リスペクト」の記事について、朝日新聞社広報室としての談話をお送りします。
「探検キーワード」は、1998年4月から連載を始めました。社会、風俗、文化領域で、話題の言葉を手がかりに時代や世相を考えるものです。記者が取材した上でこう感じた、という一つの見方を示しています。それが絶対に正しいと主張するものではなく、記者の見方を通じて、読者にも考えていただこう、というのが趣旨です。したがいまして、佐々木さんが手紙で書いていらっしゃるような、別の見方や解釈があるのも当然のことだと考えています。紙面でコメントしている方々の意見についても、同様に賛否があってしかるべきだと思います。
ご指摘の点については、今後の参考とさせていただき、より一層、真しな取材と執筆に努めるつもりです。以上です。ご了解いただくよう、お願いします。
2000年1月25日
朝日新聞社広報室
細心の注意を払っても誤解は生まれる
上記の件では、ヒップホップ音楽が、一般層(メジャー)に進出していく過渡期のタイミングで、マス・メディア(新聞)に出鼻をくじかれた形となった。
制作者サイドが、誤解を招きそうな表現に対して、事前に解説(言いワケ)を用意していたとしても、鑑賞者にその知識が無ければ意味がない、という教訓なのかもしれない。
その後、Rhymester(ライムスター)は、朝日新聞デジタルで、新作アルバムのプロモーションなどを行なっていたりするので、関係は悪くないようだ。
リンク
宇多丸さん「しっとり感がたまらない」 ブルボン「レーズンサンド」(2013年3月22日)
制作者と鑑賞者の責任
- ゲームに参加させるには、ルールを徹底させなければならない。(制作者の責任)
- ゲームに参加していない人間が、ゲームを語ると、ややこしくなる。(鑑賞者の責任)
自己責任で選択する
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)の普及によって、個人の評価が全世界で共有できる時代になった今、いわゆる「風評被害」の問題が顕在化している。
たとえば、レストランの口コミ・サイト「食べログ」で、一般客が酷評して、対象となった飲食店の売上が暴落した、なんていう話も聞く。
なにが「いい」、なにが「わるい」という評価を世界中で共有できる「お手軽さ」は、反面、それを発信するのも、信じるのも、自己責任で選択しなければいけない。
いずれにしても、自分が発信するアウトプットに関しては、責任をもって行なう必要があるだろう。
参考作品
リスペクト (1999/07/20) RHYMESTER |