目次
- The World Class Wreckin’ Cru(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代
- N.W.A(エヌ・ダブリュー・エー)時代
- Death Law(デス・ロウ)時代
- Aftermath(アフターマス)時代①
- Aftermath(アフターマス)時代②
- アルバム「Detox」制作時代
- ヘッドフォン「Beats by Dre(ビーツ・バイ・ドレ)」が大ヒット
The World Class Wreckin’ Cru(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代
Dr. Dre(ドクター・ドレ)の地元は、カリフォルニア州のコンプトンという地区。カリフォルニア州最大の都市、ロサンゼルスの南側に隣接している。
コンプトン地区は、アメリカでもっとも犯罪率の高い都市のひとつと言われている。ここでDr. Dre(ドクター・ドレ)は、ヒップホップの活動をはじめたのだ。
18歳のころ(おそらく1983年前後)、加入していたThe World Class Wreckin’ Crew(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)というグループから、作品をリリースした。
その後も、いくつかの作品を発表したが、メンバー内の金銭トラブルによって、Dr. Dre(ドクター・ドレ)とDJ Yella(イェラ)がグループを脱退。事実上、グループは消滅した。
The World Class Wreckin’ Crew(ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルー)のメンバー
- Dr. Dre(ドクター・ドレ)
- Lonzo(ロンゾ)
- Cli-N-Tel(クラインテル)
- DJ Yella(イェラ)
N.W.A(エヌ・ダブリュー・エー)時代
1986年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)と、DJ Yella(DJイェラ)は、Eazy-E(イージー・イー)らと共に、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)を結成。
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、World Class Wreckin’ Crew(ワールド・クラス・レッキン・クルー)時代の経験を活かし、楽曲を制作したり、ラップをして、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)に貢献した。
精力的な活動を続け、やがて、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)は、コンプトンを象徴するほどのヒップホップ・グループとなった。
コンプトン出身のグループとあって、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)が描く歌詞の内容は、過激なものばかり。その暴力的な歌詞は、コンプトンの不良たちを刺激し、コンプトンの犯罪率を引き上げたとも言われている。
Eazy-E(イージー・イー)
N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)の中心人物は、ラッパーのEazy-E(イージー・イー)である。その彼が、グループのギャラ(売上金)をピンハネしている疑惑が浮上し、メンバー同士の確執を生む。
これが原因なのかは定かでないが、1988年、ラッパーのArabian Prince(アラビアン・プリンス)がグループを脱退。翌年、1989年、Ice Cube(アイス・キューブ)も脱退する。
そして1991年、とうとうグループの中核を担っていた、Dr. Dre(ドクター・ドレ)までもが脱退してしまった。このまま、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)は消滅。
1995年、Eazy-E(イージー・イー)は、エイズによって31歳の若さで死亡した。
N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)のメンバー
- Eazy-E(イージー・イー)
- Dr. Dre(ドクター・ドレ)
- Ice Cube(アイス・キューブ)
- Arabian Prince(アラビアン・プリンス)
- MC Ren(MCレン)
- DJ Yella(イェラ)
Marion Suge Knight(マリオン・シュグ・ナイト)
N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)を脱退時期のDr. Dre(ドクター・ドレ)は、Marion Suge Knight(マリオン・シュグ・ナイト)とコンタクトをとっていた。新レーベルの話が来ていたからだ。
本格的なギャングスタ・ヒップホップを量産する工場となるレーベル。これを2人で立ち上げたいという、Suge Knight(シュグ・ナイト)からの誘いだった。
Death Law(デス・ロウ)
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、N.W.A.(エヌ・ダブリュー・エー)を脱退した1996年に、Suge Knight(シュグ・ナイト)と、Death Law(デス・ロウ)レコードを立ち上げた。直訳すると、「死の法律」「死刑を宣告された者が執行を待つ刑務所の独房棟」。その物騒なレーベル名が示すとおり、過激な内容を含んだ「ギャングスタ作品」を取り扱うレーベルとなった。
まず、手始めに、Dr. Dre(ドクター・ドレ)が、初のソロ・アルバム「The Chronic」をリリース。このアルバムが、西海岸ヒップホップを、大いに盛り上げることになる。
1980年代の西海岸ヒップホップは、東海岸ヒップホップに比べて、10年遅れている、と言われてきた。ところが、「The Chronic」以降、Death Law(デス・ロウ)の快進撃で、一気に西海岸ヒップホップがブレイクしたのだった。
アルバム「The Chronic」がリリースされた1992年からは、Dr. Dre(ドクター・ドレ)の独壇場である。その成功要因として、個性的な声を持つ相棒、Snoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ)の存在も大きい。
Snoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ)
Snoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ)の声やラップスタイルは、これまでのヒップホップ作品では、あまり聴くことのできなかったタイプであった。気だるそうなラップと、特異なヴィジュアルは、スター性を秘めたキャラクターとしては、申し分ない存在であった。
♪Nothin’ But A G Thang [Feat. Snoop Doggy Dogg] / Dr.Dre
翌年1993年、Snoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ)が、ファースト・アルバム「Doggy Style」をリリース。Dr. Dre(ドクター・ドレ)の「The Chronic」とともに、2枚のアルバムで「Gファンク旋風」を巻き起こしたことになる。
本場N.Y.(東海岸)のヒップホップシーンを差し置いて、ギャングスタ・ラップは大ブレイク。まさに、Death Law(デス・ロウ)の時代が到来した。
Doggystyle (2001/05/22) Snoop Doggy Dogg
|
2Pac(トゥパック)
1995年、Suge Knight(シュグ・ナイト)は、強姦容疑で刑務所に入っていた2Pac(トゥパック)に目をつける。2Pac(トゥパック)は、刑務所から、ソロ3作目となるアルバム「Me Against The World」(世界に背く俺)を、リリースしていた。
Me Against the World (2011/08/18) 2pac
|
2Pac(トゥパック)は、Death Law(デス・ロウ)にピッタリなキャラクターだと判断したSuge Knight(シュグ・ナイト)は、保釈金を支払って、2Pac(トゥパック)を釈放させ、そのままDeath Law(デス・ロウ)に加入させた。
こうして2Pac(トゥパック)は、Death Law(デス・ロウ)の象徴的なラッパーとして、みごとに機能したのであった。
Death Law(デス・ロウ)の主要メンバー
- Suge Knight(シュグ・ナイト)
- Dr. Dre(ドクター・ドレ)
- Snoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ)
- Tha Dogg Pound(ザ・ドッグ・パウンド)
- 2Pac(トゥパック)
東海岸の巻き返しと東西抗争 ~ Death Law(デス・ロウ)の衰退
1992年からの数年間は、間違いなくDeath Law(デス・ロウ)の時代だった。西海岸のヒップホップが全国的に大ヒットすると、「派手な西」に対して、「地味な東」というイメージが何となくついた。これでは、東海岸のヒップホップも黙ってはいない。
ブリブリのギャングスタ・サウンドは、確かに派手だが、そればかりだと飽きてしまう。コアなリスナーは逆に、何度噛んでも味のあるスルメのように、地味ながらも飽きのこない東海岸の、渋いネタ使いに興味が向くようになる。
1993年、東海岸(ニューヨーク)では、ポテンシャルを秘めた、多くの新人アーティストが登場した。Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)や、Black Moon(ブラック・ムーン)、Mobb Deep(モブ・ディープ)らが頭角を現す。
いまでも語り継がれる東海岸ヒップホップの名盤は、この時代に量産されていたのである。これら中毒性の強いサウンドは、地下(アンダーグラウンド)から、じわじわとリスナーの耳を汚染した。
同年、Nasty Nas(ナスティ・ナズ)が、シングル「Halftime」で頭角を現すと、翌年1994年に、ファースト・アルバム「Illmatic」をリリースする。
このアルバムのために、東海岸のトップ・プロデューサーたちが、一堂に集結。DJ Premier(DJプレミア)、Large Professor(ラージ・プロフェッサー)、Pete Rock(ピート・ロック)らが、渾身のトラックを提供した。
また、Puff Daddy(パフ・ダディ)が、1993年に旗揚げした、Bad-Boy(バッド・ボーイ)は、Death Law(デス・ロウ)最大のライバルとなるレコード・レーベルとなった。
R&BとHip Hopを軸に、次々とヒット作を生み出すPuff Daddy(パフ・ダディ)。レーベルの顔、The Notorious B.I.G.(ザ・ノトーリアス・BIG)の登場で、人気が爆発。シングル「Big Poppa」を皮切りに、全米チャートを席巻しはじめた。
この頃に登場したニューヨーク(東海岸)のアーティスト
- Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)
- Black Moon(ブラック・ムーン)
- Mobb Deep(モブ・ディープ)
- Nas(ナス)
- The Notorious B.I.G.(ザ・ノトーリアス・BIG)
Warren G(ウォーレンG)
一方、西海岸では、相変わらずG-Funk(Gファンク)が人気を博していた。Dr. Dre(ドクター・ドレ)の実弟、Warren G(ウォーレンG)は、1994年に、Def Jam(デフ・ジャム)から、アルバム「Regulate… G Funk Era」をリリース。兄貴(ドレ)とは違う、メロウなGファンクを提案し、これが奏功した。
♪This D.J. / Warren G
Regulate G-Funk Era (1994/06/07) Warren G
|
東西抗争の果ての悲劇
1995年には、Tha Dogg Pound(ザ・ドッグ・パウンド)がDeath Law(デス・ロウ)から「Dogg Food」をリリース。収録シングルの「New York New York」は、東海岸ヒップホップに宣戦布告した曲で、このころから、西と東の対立が顕著になる。
♪New York New York / Tha Dogg Pound
ちなみに、この「New York New York」に対抗して、N.Y.(東海岸)のラップ・デュオ、Capone-N-Noreaga(カポーン・アンド・ノリエガ)が「L.A. L.A.」で応戦した。
東西抗争でヒップホップは盛り上がった。しかし…
「東西抗争」というシナリオは、ヒップホップをお金にかえる上で、非常に有効に働いた。2Pac(トゥパック)は、西海岸のカリスマとして祭り上げられ、東海岸のアーティストを次々と罵倒した。
この過激な2Pac(トゥパック)のスタイルは、Thug Life(サグ・ライフ)と呼ばれるもので、不良少年に多大な影響を与えた。このころのDeath Law(デス・ロウ)は、ほとんど暴力団と変わらない。
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、音楽が、暴力の道具になっていることに危惧していた。このまま「東西抗争」が激化すれば、いつか死者が出てしまう。そう考えたDr. Dre(ドクター・ドレ)は、ドキュメンタリー映画『The Show』の中で、「これ(東西抗争)は、現実の物語ではない。エンターテイメントなんだ」と、訴えた。
1996年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、2 Pac(トゥパック)とともに、シングル「California Love」で共演。この曲は、カリフォルニアへの愛を歌った「カリフォルニア賛歌」ともいえる曲で、これまでのGファンク作品の集大成的な曲となった。
♪California Love [Feat. Dr. Dre] / 2Pac
この年、2Pac(トゥパック)は、Bad Boy(バッド・ボーイ)の面々に向けた超絶ディス曲、「Hit’Em Up」を公開した。その数日後、2Pac(トゥパック)は、何者かに射殺された。
♪Hit ‘Em Up [Feat. Outlawz] / 2Pac
東からの刺客。Bad Boy(バッド・ボーイ)側が、ヒットマン(殺し屋)を放ったのでは、とのウワサも立った。この事件は迷宮入りとなったが、翌年、Bad Boy(バッド・ボーイ)の看板ラッパー、The Notorious B.I.G.(ザ・ノトーリアス・BIG)も射殺され、東西抗争は幕を閉じる。
Aftermath(アフターマス)①(1996年~)
最悪の形で幕を閉じた東西抗争。Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、Death Law(デス・ロウ)を脱退。Suge Knight(シュグ・ナイト)とも決別する。
そして新たに、Aftermath(アフターマス)というレーベルを立ち上げた。暴力的なギャングスタ作品からの脱却。彼は新境地へと進みはじめた。
同年、レーベル所属アーティストの名刺代わりとなるアルバム、「Dr.Dre Presents The Aftermath」をリリース。収録曲の「East Coast, West Coast, Killas」には、KRS-One(ケアレス・ワン)、Nas(ナス)、Cypress Hill(サイプレス・ヒル)のB-Real(ビー・リアル)らが参加している。
Dr Dre Presents the Aftermath (1996/11/26) Dr. Dre
|
特筆すべきは、東海岸のアーティスト、KRS-One(ケアレス・ワン)や、Nas(ナス)がアルバムに参加しているということだ。Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、もはや、西海岸とか、東海岸とかいう分類にこだわっていない。実際、このころにNas(ナス)が所属していた、The Firm(ザ・ファーム)というグループのアルバムにも、数曲プロデュースしている。
Nas(ナス)もまた、初期プロデューサーで後見人的存在であった、Large Professor(ラージ・プロフェッサー)のもとを離れて、Dr. Dre(ドクター・ドレ)に接近していた時期でもある。
♪East Coast, West Coast, Killas [Feat. Dr. Dre] / Group Therapy (B-Real, KRS-One, Nas & RBX)
♪Firm Fiasco / The Firm (Nas, AZ & Foxy Brown)
♪Phone Tap [Feat. Dr.Dre] / The Firm (Nas, AZ & Foxy Brown)
Eminem(エミネム)
1998年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)に転機が訪れる。アンダーグラウンドで、ダイヤの原石を発見した。卓越したスキルをもつ白人のラッパー、Eminem(エミネム)である。
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、ラジオ番組で、「最近は、Eminem(エミネム)という白人ラッパーに注目している」という旨を発言。
♪My Name Is / Eminem
1999年、先行シングル「My Name Is」を経て、Aftermath(アフターマス)から、アルバム「The Slim Shady LP」をリリース。Eminem(エミネム)自身が、Sllim Shady(スリム・シェイディ)という架空のキャラクターを演じたこのアルバム。どんなに過激な内容のラップをしても、スリムというキャラクターが言ったことにすればいい、という、目からウロコの手法を採用した作品だった。
The Slim Shady LP (2006/04/19) Eminem, Royce Da 5’9″ 他
|
これまで、白人が黒人文化のヒップホップで成功することは、かなり難しかったはずだ。なぜなら、本来、ヒップホップの文化背景には、権力による不当な黒人差別や、社会制度などに対する反骨精神の要素を含んでいるからである。
権力の象徴である白人は、基本的に敵なのだ。たしかに、ヒスパニックやプエルトリカンといった、混血の白人ラッパーは、多く存在し、市民権を得ている。しかし、純粋な白人アーティストが支持された、という例は、ほとんどなかったようだ。
商業ヒップホップに乗っかって、「ヒップホップはビジネスになる」と、白人が小金稼ぎをするようなことがあれば、たちどころに非難されてしまうのだ。それは、かつての、Vanilla Ice(ヴァニラ・アイス)が身を持って実証している。
アルバム「2001」
1999年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、Aftermath(アフターマス)から、自身のセカンド・アルバム「2001」をリリースした。1992年の「The Chronic」から、実に7年ぶりとなる。
先行シングル「Still D.R.E.」、続くセカンド・シングル「The Next Episode」のタイトルから、「まだドレは終わってない。次のエピソードに進もう」というメッセージを受け取ることができる。
実際、Gファンクが進化した、Dr. Dre(ドクター・ドレ)ならではのサウンドは、次のエピソードを語るに相応しい作品となった。
♪Still D.R.E. / Dr. Dre
♪The Next Episode [Feat. Snoop Dogg, Kurupt & Nate Dogg] / Dr. Dre
アルバムには、Snoop Dogg(スヌープ・ドッグ)、Xzibit(イグジビット)、シンガーのNate Dogg(ネイト・ドッグ)、そしてEminem(エミネム)らが参加している。卓越したスキルとキャラクターをもつアーティスト集団が、Dr. Dre(ドクター・ドレ)のもとに集結しているのだ。
Aftermath(アフターマス)②(2000年~)
2000年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、グラミー賞の「プロデューサー・オブ・ザ・イヤー」を獲得した。この賞は、アルバム「Slim Shady LP」と「2001」に対する功績をたたえられたものである。
これらのアルバムは、深く豊かなベースラインに高音のピアノと弦楽器のメロディを重ねるという、Dr. Dre(ドクター・ドレ)の新たな方向性を示唆した作品であった。
つねに100%、完璧な音作りを目指す、職人気質のDr. Dre(ドクター・ドレ)は、薄めた量産品を世に出すことはない。だからこそ、盤石なAftermath(アフターマス)ブランドが形成されるのである。
とうぜん、他アーティストに提供する楽曲にも、いっさい手を抜かない。以下の3曲は、2001年に、Dr. Dre(ドクター・ドレ)が他アーティストをプロデュースした作品の一部だ。
♪Let Me Blow Ya Mind [Feat. Gwen Stefani] / Eve
♪Break Ya Neck / Busta Rhymes
♪Family Affair / Mary J Brige
Shady Records(シェイディ・レコード)
かつて、Dr. Dre(ドクター・ドレ)が発掘した白人ラッパー、Eminem(エミネム)は、黒人市場にとどまらず、全世界規模にまで市場を拡大していた。Eminem(エミネム)は、自身のレーベル、Shady Records(シェイディ・レコード)を立ち上げた。
1999年にアルバム「Slim Shady LP」をリリース後、2000年には、「The Marshall Mathers LP」をリリース。
Marshall Mathers Lp (2000/05/23) Eminem
|
Dr. Dre(ドクター・ドレ)がプロデュースしたリード・シングル「The Real Slim Shady」は、架空のキャラクターであるSlim Shady(スリム・シェイディ)が、Britney Spears(ブリトニー・スピアーズ)や、Christina Aguilera(クリスティーナ・アギレラ)、さらには、ミクスチャー・バンドのLimp Bizkit(リンプ・ビズキット)のメンバーFred Durst(フレッド・ダースト)の実名を出して、コケにした問題作。
♪The Real Slim Shady / Eminem
架空のキャラクターとはいえ、どこまで許されるのかはわからないが、話題性に関しては十分すぎる作品となった。さらに、2002年には、「The Eminem Show」をリリース。立て続けにメガヒットを飛ばしたEminem(エミネム)は、全世界ツアーを回れるほどのアーティストへと成長したのだった。
The Eminem Show (2002/05/23) Eminem
|
Shady Records(シェイディ・レコード)作品のセールスは好調で、ヒップホップのライト・リスナーの耳にまで届いた。Eminem(エミネム)の知名度は、一般層にまで浸透していた。後続の、50 Cent(フィフティ・セント)、Obie Trice(オービー・トライス )や、D12(ディー・トゥエルブ)らの作品もしっかりとセールスを上げた。
Shady Records(シェイディ・レコード)の主要メンバー
- Eminem(エミネム)
- Obie Trice(オービー・トライス )
- D12(ディー・トゥエルブ)
- 50 Cent(フィフティ・セント)
50 Cent(フィフティ・セント)
ある日、Eminem(エミネム)は、クイーンズのラッパー、50 Cent(フィフティ・セント)のミックステープを入手し、ラジオ番組で、「50 Cent(フィフティ・セント)に注目している」と発言した。
50 Cent(フィフティ・セント)は、過去にいちどデビューしたことのあるラッパーで、コロンビアと契約していた過去がある。ところが、とある理由で解雇され、ストリートでミックステープを売りまわる日々を過ごしていたのだった。
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、Eminem(エミネム)が連れてきた、50 Cent(フィフティ・セント)という男の、Aftermath(アフターマス)加入を了承した。
そして、すぐさま、Dr. Dre(ドクター・ドレ)がプロデュースした先行シングル、「In Da Club」をリリース。この曲は、特大のクラブヒット作品となった。
♪In Da Club / 50 Cent
2003年、50 Cent(フィフティ・セント)のアルバム、「Get Rich Or Die Tryin’」をリリース。Eminem(エミネム)や、Dr. Dre(ドクター・ドレ)がプロデュースした、このアルバムは、大ヒット。50 Cent(フィフティ・セント)のハードコア路線も、しっかりと売り切ることに成功している。
Get Rich Or Die Tryin (2003/02/06) 50 Cent
|
Detox(デトックス)
Dr. Dre(ドクター・ドレ)が、Eminem(エミネム)を引っ張り上げ、Eminem(エミネム)が、50 Cent(フィフティ・セント)を第一線へと復活させた。Aftermath(アフターマス)は、盤石な地盤を築きはじめる。
そして、ついに王が動き出す。
2004年、Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、自身のアルバム「Detox」を制作する意向を示した。Aftermath(アフターマス)の総裁が、とうとう自分の新作を発表するとあって、期待は大きかった。
ところが、問題が発生した。Dr. Dre(ドクター・ドレ)が、「しばらくは、Aftermath(アフターマス)所属のアーティストをプロデュースしていく」などという旨の発言をしたのだ。
これは事実上、アルバム「Detox」の制作を凍結するということであった。
その後は、アルバム「Detox」のリリースをほのめかしては、期日が近くなると延期する、ということを繰り返すうちに、とうとう2010年になってしまった。
そして、誰もが幻のアルバム「Detox」のことを忘れていたころ、急にアルバムの正式先行シングルがリリースされた。2010年末のことである。
♪Kush [Feat. Snoop Dogg & Akon] / Dr. Dre
Snoop Dogg(スヌープ・ドッグ)とAkon(エイコン)が参加したシングル「Kush」は、かなりの完成度を誇っている。プロモーション・ヴィデオにも余念がない。とうとう動き出した、とリスナーは期待を高めた。
そして年が明けた2011年2月1日、2枚目の先行シングル「I Need A Doctor」を発表する。この曲には、Eminem(エミネム)が参加している。プロモーション・ヴィデオでは、Eminem(エミネム)が「はやく活動を再開してくれ、ドレ!」と、発破をかけているようにも聞こえる。
♪I Need A Doctor [Feat. Eminem & Skylar Grey] / Dr. Dre
ところが、それ以降、「Detox」に関する作品はリリースされていない。
ヘッドフォン「Beats by Dre(ビーツ・バイ・ドレ)」が大ヒット
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、アルバム「Detox」の制作を凍結し、ヘッドフォンの開発をしていた。ブランド名は、「Beats by Dre(ビーツ・マイ・ドレ)」。ビートに対する信頼度もあってか、見事、ヘッドフォンは大ヒット。全世界で売れたのだった。
ヘッドフォンをたっぷりと売ったあとは、「Beats by Dre」ブランドを、HTCに売却した。その売却益も影響して、有名人の長者番付ランキングで5位を獲得。全米でも有数の大金持ちとなった。
これまで、ヒップホップ作品を、お金に変えてきたDr. Dre(ドクター・ドレ)だったが、あり余るほどのお金に入れた今、作品を制作する意欲がわくのだろうか。
かつて、50 Cent(フィフティ・セント)率いるG-Unit(Gユニット)に所属していたThe Game(ザ・ゲーム)は、「Detox」の発売について以下のように言及している。
●「Detox」はもう出ない? ゲームが言及 – bmr.jp
Dr. Dre(ドクター・ドレ)は、今後、映画のプロデュースや、新たな音楽ストリーミング・サービスの立ち上げなどを計画しているという。もう、ヒップホップ作品をプロデュースすることはないのだろうか。
Dr. Dre(ドクター・ドレ)のファンとしては、いつか完成した「Detox」を聴いてみたいという願いがある。しかし残念ながら、発売する可能性は低そうだ。