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映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』の感想

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先月、吉祥寺で映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』を観てきた。もともと本は持っていて、だいたいどんな活動をしているのかは知っていたので、どんな映画になっているのか楽しみだった。

この映画はバンクシーの「追っかけ」にフォーカスしたドキュメンタリー映画で、バンクシーは登場しない(まあ正体を隠して活動しているのだから当然だ)。

ただ、ファンの行動を映し続けることで結果的にバンクシーの像が浮かび上がってくる。そんな映画だった。SNSを使って宝探しのアトラクションをやっている感覚。楽しそうだった。

実際、バンクシーのアーティスティックなテロ行為を除いて、ファンたちの行動は合法である。そういった意味ではバンクシーが体を張って、大衆を楽しませているようにも見える。

問題なのは、他人や公共のスペースに「作品」があること。すなわち「広告」についての問題である。

バンクシーの「作品」は素晴らしい。だが「広告」のルールには抵触している

広告には、それを見た人たちに「ある価値観を植え付けて行動させる」という効果がある。広告を多くの人間の目にさらせば、それだけ多くの人間に価値観を植え付けて、行動を促すことができる。

そんな便利な広告だが、利用するにはお金がかかる。そして多くの人が目にする場所だったり、行動させたい人間が集まっている場所になるほど、広告料は高額になる(視聴率の高いゴールデン枠のテレビCM枠が高額なのもそのため)。

バンクシーは広告効果のある場所に作品を公開しているが、広告料は支払っていない。つまり「違法」である。だから正体を明かすことができない。正体を明かせば、そのまま刑務所入りだ。

だからどんなに素晴らしい作品でも、「これ自分の作品!」と名乗り出ることはできない。これがルールを犯したデメリットである。

それでも活動を続けているわけだから、「自分の作品」として認めてもらうことを放棄してでも「不特定多数の価値観を変えたい」と願っていると考えるのが妥当な線ではないか。それならば広告費を踏み倒してでも作品を公開するのもわかる(犯罪行為には共感しないが)。

グラフィティの進化系

ヒップホップでは「グラフィティ」という分野がすでに存在し、壁や電車などの公共物にスプレーで自己主張する文化がある(これも犯罪)。バンクシーのそれは、グラフィティのそれと本質的に変わりはない。むしろ現代版に進化、昇華させたというだけで、グラフィティそのものである。

あらかじめ紙で、絵の「ひな型」を作っておいて、それを壁に当ててスプレーするだけで絵が完成する。このバンクシーが得意とする「ステンシル」という手法は、1からスプレーで書くよりも格段に早い。作業時間を大幅に短縮できるため、正体を明かせないアーティストにとってはは最も適したやり方と言える。

感想

いずれにせよ、広告費を支払わないで大勢の頭の中に入り込んでメッセージを伝えようとするバンクシーに、「傲慢で、わがまま」な印象を持った。

とはいえ面白い作品があるのも事実。「犯罪行為を応援しない程度に作品を楽しむ」という微妙なスタンスで今後の動向を見守っていきたい。

予告編

参考作品