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書評

練マザファッカーで知られるD.Oの自伝本『悪党の詩(うた)』の読後雑感

悪党の詩

練マザファッカーで知られるラッパー、D.Oの自伝本『悪党の詩(うた)』を読んだ。
しゃべり方やヴィジュアルで、強烈なキャラクターが印象付けられているD.O。
この本を読めば、彼の生い立ちや人生観を知ることができる。

本書のタイトルどおりD.Oは、みずから「悪党」を自称している。子供時代から誰よりも目立つ不良であり、ルールに縛られない生き方を是としていた。ここに現在のD.Oを形づくるための「ルーツ」がある。そして今でも、悪党としての矜持(きょうじ)を保ちながら活動を続けている。

決して譲れないぜこの美学
何者にも媚びず己を磨く

「B-BOYイズム」RHYMESTER

これはジャパニーズ・ヒップホップの金字塔、ライムスター「B-Boyイズム」のサビの一節である。このラインのように、D.Oには、譲れない「悪党の美学」みたいなものを感じる。

たとえば、「ダサいことはしない」「筋は通す」「興味あることを全力でやる」というような自分イズム。これらは心の中にある「自分だけのポリシー(行動指針)」となる。このポリシーにしたがうことで行動を即断でき、結果、生き方にブレがなくなっていく。

問題は、自分だけのポリシーにしたがうことで、社会のルールを破ることになってしまう場合だ。自分にとって「ダサい」ことはしたくない。だから校則を破る。筋は通す。だから焼きを入れる(暴力を振るう)。

本来はカオスな集団であるはずの社会。つまり弱肉強食の世界では、弱者は無慈悲に淘汰されてゆく。そこで、みんながスムーズに生きていけるように設定されたのが「社会のルール」である。このルールを逸脱してしまうと、集団からは「異物」として認識されてしまう。つまり「悪党」である。

社会的なルールとは異なる「自分ルール」にもとづいたライフスタイルは、誤解を生みやすい。どうしても、自分にとっての「善」が社会にとっての「悪」になるケースが出てくるからだ。それでも自分のスタイルを貫き通すならば、世間から「悪党」呼ばわりさることを容認しなければならない。

僕は須藤/君塚慈容としてではなく、D.Oというラッパーとして判決を受け止めた。死ぬまでD.Oを貫くつもりだ。取調室でも、法廷でも、獄中でも、シャバに戻ってからも、ラッパーとしての責任をすべて背負って立ち回らないといけない。

『悪党の詩』D.O

D.Oは、みずから「悪党」を自称している。彼は容認しているのだ。自分は悪党でいいと。でも死ぬまで自分らしく生きる。そんな決意表明にもとれる。

目次『悪党の詩』

第1章 【幼少期~小学生】 ゲトーの輪
第2章 【中学時代】 悪ガキの写真
第3章 【高校~定時制~ニューヨーク】 弟子入り
第4章 【雷】 ズバ抜けたムーブ
第5章 【1stアルバム~2ndアルバム】 ハスリンからボーリン
第6章 【逮捕~ I’m Back~9SARI】 マイナスからの再スタート
第7章 【2nd逮捕~裁判】 獄前リリース