渋谷のシネマライズで映画「ワイルド・スタイル」を観てきた。もともと1982年に製作(翌1983年に公開)された映画で、ほとんど情報のなかった日本人に「ヒップホップ」を提示した初めての映画だった。
ただし劇中で「ヒップホップ」という単語を口にしている人間はいなかったように感じる。おそらく「ヒップホップ」という言葉自体がまだ生まれて(もしくは定着して)いなかったのだろう。
スクリーンに真空パックされた映像
ストーリーそのものはシンプルで、「グラフィティ・ライターである主人公の作品が認められて、大きなイベント会場の仕事を任される」というもの。ただ正直なところ、この映画に関して言えば、ストーリー展開など比較的どうでもいいと思っている。
グラフィティ、ブレイキング、DJ、MC。ヒップホップの4大要素がすべて映像に収められている。それだけで価値がある映画だ。しかも実際にヒップホップ活動をしているアーティストたちがキャスティングされている。これがすごい。
ある意味、当時のリアルなヒップホップ文化の創世記を収録した貴重なドキュメンタリー・フィルムと言ってもいいだろう。
ヒップホップの各要素をつなげるパーティー
ヒップホップの4大要素(グラフィティ、ブレイキング、DJ、MC)は、それぞれ独立し、いずれかを選択したアーティストが技をみがく。彼らの発表の場は、パーティーである。
それぞれの要素がひとつの場所に集結したそのとき、お祭りさわぎは始まる。そのお祭りに参加することによって、ヒップホップを体感し、影響を受け、自らも表現したいと渇望するのである。
私たちは、映画の「視聴」という方法でこのお祭りに参加する。ほとんどの人がヒップホップという文化を知らずにいた1983年の映画公開時、映画『ワイルド・スタイル』の映像を見て、どう感じたのだろうか。
今でこそ世界中でブレイクダンスやバトルDJ、MCバトルなどが行われている。
ヒップホップを知らない人でも多少はメディアに露出するし、なんとなくならイメージできるだろう。しかし、まったくヒップホップ文化を知らないままあの映画を見たら、まさにカルチャー・ショックを起こすに違いない。
非合法でもアートと自認する主人公
グラフィティ・アーティストの活動は、その性質上、どうしても犯罪と隣り合わせである。いくらアートとは言っても、犯罪行為を看過していいはずがない。
映画「ワイルド・スタイル」の主人公は、グラフィティ・ライターである。警察の目を逃れながら電車にスプレーでグラフィティ・アートをほどこし、正体を隠すために、ゾロという偽名を名乗る。
やがてゾロの作品が評価されはじめると、彼の正体を知る人間から仕事のオファーを受ける。非合法なグラフィティー・アーティストにとって、顔バレは致命的だ。しかし覆面でアートを続けていてもマネーは入ってこない。
グラフィティでメシを食べるためには、こういったジレンマを乗りこえる必要がある。これはグラフィティに限ったことではないが、やはり大衆に胸を張って自分の実力を証明できたほうが、より健全な暮らしを保証されるのは言うまでもない。
決して譲れない美学
兄の留守中に部屋の壁をグラフィティだらけにして怒られるシーンがある。「下らないことはやめて大人になれ。落書きに何の意味がある?」。それでも主人公は「意味あるよ。これ(グラフィティ)は」と返す。
壁の落書きは兄貴を困らせるためのイタズラではない。むしろ彼にとっては好意でやったことなのだ。タダで部屋をアーティスティックに装飾してあげたのに怒られる意味がわからない。
まっとうな兄にとって、弟は、非合法なことをするゴロツキとしか思っていないのである。犯罪ではない形で表現し、まっとうに金を稼いでこそ世間に「仕事」であると評価される。それをわかってほしいのだ。
それでも(世間がガラクタだと思っていても)、その価値を信じて作品にまで昇華させる。これこそが「B-Boyイズム」で言うところの「決して譲れない美学」ではないか。
主人公だけでなく、劇中のGrandmster Flash(グランドマスター・フラッシュ)によるDJテクニックやCrazy Legs(クレイジー・レッグス)のブレイキング、Double Trouble(ダブル・トラブル)のコンビネーション。どれをとっても、ひたむきな練習の賜物(たまもの)である。
ちなみにNas(ナズ)は、デビュー・アルバム「Illmatic」の冒頭曲「The Genesis」でこのシーンを使っている。彼もまたラップに価値を見出し、作品にまで高めたアーティストだ。
だからこそ言いたい。「意味あるよ。これ(ラップ)は」、と。